金勝山の良弁杉

biwap

2020年05月26日 14:53



 舞台は奈良時代と呼ばれた8世紀の日本。最愛の速魚(かつて自分が助けたテントウムシの化身)を殺してしまい、自暴自棄になり何もする気力もない我王。役人がやってきて首を刎ねようとするところを、良弁(ロウベン)上人が止めに入り我王の命を助ける。我王は、心あらぬまま良弁の供をする。良弁と諸国を巡るうちに、病や死に苦しむ人々の姿に出会い、眠っていた彫刻家としての才能を開花させていった。手塚治虫のライフワーク『火の鳥』鳳凰編。


 良弁。奈良時代の僧。幼時,大ワシにさらわれ、大和の春日大社の前の杉に捨てられ、義淵(ギエン)に救われたと伝えられる。新羅僧・審祥(シンジョウ)に華厳(ケゴン)を学び、華厳宗の祖とされる。盧舎那大仏造像に当たって聖武天皇を助け、大仏開眼の後、東大寺初代別当に任ぜられた。


 大仏建立の際、良弁は不足していた黄金の産出を祈願するよう命ぜられた。はじめは吉野で祈願していたが、蔵王権現の夢告を受けて近江の地にたどり着く。そこへ、老翁(比良明神)が現れ、託宣を与えた。祈願したところ、陸奥の国で黄金が発見された。この岩山(石山)の地に草庵を建てたのが、石山寺の始まりとされる。(石山寺縁起絵巻第1巻第1段)


 土佐光起筆「良弁僧正は相模国柒部氏(ヌリベシ)の人也、嬰児の時、鷲俄に来て取て空へのぼる」の段の絵。一説では、相模国の柒部氏(ヌリベシ)の出身であるとも言われている。



 別伝によれば、近江国の百済氏の出身。母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられた。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み、後に全国を探し歩いた母と再会したとの伝承がある。浄瑠璃義太夫節に『二月堂良弁杉の由来』があり、今日でもよく上演される。



 湖南の地にある金勝山は、その昔、金勝三千坊・阿星山三千坊と呼ばれ、比叡山に匹敵するくらいの巨大な法域であった。その中の金勝寺はかっては狛坂寺と呼ばれ、奈良の都の鎮護寺であった。聖武天皇が良弁に命じて創立させた。この山が近江南部における信仰の中心地だった。



 金勝寺本堂には釈迦如来、横手の堂には巨大な軍荼利明王がある。像が立ち並ぶ当時の壮観がしのばれる。



 東大寺の前身は、近江紫香楽の宮にあった。天平十五年(743)十月十五日、発願の詔が出され、翌年の秋には大仏の骨組みができている。しかし、わずか3年足らずで計画は挫折し、再び平城宮へ。紫香楽の宮は廃滅。紫香楽宮跡には礎石が昔のまま残っている。東大寺と同じ伽藍配置、宮跡ではなく寺跡だったのかもしれない。



 この信楽は金勝山の南麓に位置している。「金勝」とは、金属を扱う人々が奉じた神、あるいは何かの鉱脈を意味するのかもしれない。金勝族という金属を扱う集団があり、大仏造営に関わった良弁がそれを統率していたとも考えられる。大仏の鋳造に必要な金工職人はここから召集されていたのではないか。その金勝族が奉じた「神山」が金勝山。


 金勝山系は、琵琶湖が臨まれる絶好のハイキングコース。平城京造営の時に良材が切り出され、巨石が露出している。


 桐生への中間地点付近で、狛坂磨崖仏(コマサカマガイブツ)に出会う。このあたりは、狛坂寺(金勝寺)の伽藍があった所。金勝寺が女人結界であったので、別に狛坂寺が建てられたとされる。


 金勝寺の創建は良弁によるものと考えられ、磨崖仏もこの時期に作られたものだろう。大きな花崗岩の磨崖面に、阿弥陀如来坐像と観音・勢至の両脇侍、その周囲に12体の仏像が彫られている。明らかに新羅様式の影響が見られ、渡来系工人の作と考えられる。金属精錬も仏教も渡来文化以外の何ものでもない。金勝の山を歩くとき、そこに眠っている歴史の鉱脈に心を震わせてしまう。


関連記事