近江の隠れキリシタン

biwap

2019年12月15日 11:04


 1965年、滋賀県草津市にある草川家。家の改修のために仏像を移動させようとしたところ、像と蓮台の間から布にくるまれた状態で聖母マリアの「メダリオン」が発見された。今年5月に奈良大が蛍光X線分析で成分を調べた。青銅製で桃山時代から江戸時代初期にかけて作られたものだと判明した。滋賀では珍しい「隠れキリシタン遺物」として注目を集めている。


 以前、九州を旅行した時のこと。秀吉の朝鮮侵略の拠点であった肥前名護屋城の址を訪ねた。


 大規模な城の周囲には、130以上の諸大名の陣屋が構築されていた。諸大名の陣屋の配置図をのぞいてみると、名だたる戦国大名の中に観音寺詮舜陣屋跡の名前が見えた。まさかと思ったが、間違いなく滋賀県草津市にある「芦浦観音寺」である。


 観音寺は1591年に秀吉から船奉行に任命され、朝鮮侵略(1592)に際しては、水夫の徴発と兵糧米の徴収・輸送を行っている。そして詮舜自身、秀吉の側近として名護屋城に出向いているのだ。
 観音寺には「芦浦観音寺文書」という貴重な史料が残っている。草津市の古文書講座でその中の次のような書簡を読んだことがある。


 織田信長がその祐筆松井友閑の腫物の治療させるために芦浦に滞在中の耶蘇教の医師をその居城に寄こすよう直々に観音寺に申し付けたが、未着ゆえに督促の手紙を送っているのである。耶蘇教とはカトリック教会の一教団で信長の保護の下、医療事業を行っていたのであろう。なぜかその医師が芦浦観音寺に滞在していた。


 この時期、信長に抵抗する共同戦線が作られ、その最大拠点が石山本願寺とそれに呼応する各地の一向一揆であった。南近江でも一向宗門徒たちは金ケ森・三宅(現守山市)に立て籠もり抵抗闘争を行っている。その中心地金ケ森と芦浦観音寺(現草津市)は目と鼻の先である。芦浦観音寺のキリシタンとの関わりは信長への迎合であったのかもしれない。


 秀吉の朝鮮侵略の先導的役割を果たした観音寺だが、やがて政権はキリシタン弾圧へと向かう。キリシタンの内部事情に通じていた観音寺は新たな役割を担うことになる。


 江戸時代初期、長崎の宗門目明しとしてキリシタン弾圧に辣腕を振るった沢野忠庵という人物がいる。沢野忠庵ことクリストワン・フェレイラ。1580年ポルトガル生まれ。日本に渡来し布教活動に従事。1632年、イエズス会日本管区長となり潜行活動。翌年、捕らえられ穴づりの刑を受ける。地中に掘った穴の中に逆さづりにされる拷問で、一緒に穴づりされた6名のうちにはかっての天正遣欧使節中浦ジュリアンがいた。ジュリアンは苦しみに耐えながら3日目に息を引き取る。一方、フェレイラは5時間後に背教を申し出て助けられた。
 沢野忠庵と名を改めたフェレイラは、京都所司代板倉重宗からキリシタン吟味役に取り立てられ、後に長崎に住み宗門目明しとなる。芦浦観音寺文書にも「長崎之者」として登場する。「長崎之者」、京都所司代、観音寺という三者の緊密な連携を示す文書が残る。


 こんな記述がある。永原源七という「きりしたん」が死亡。その子九左衛門は常念寺の「もんと」となるのだが、観音寺の指示のもとにその行動が監視されている。「笛吹新五郎」なる人物が訴人となり九左衛門がかくれキリシタンであることが観音寺に密告される。九左衛門は京都所司代の命により入牢せしめられ、12年にして牢死している。
 被差別民と考えらえる「笛吹新五郎」も何らかの転向者であったのかもしれないが、想像の域を出ない。一向一揆、キリシタン、思想弾圧、転向。「メダリオン」の向こうには、歴史の闇に埋もれていった深い「現実」が潜んでいる。


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