古事記に魅せられて
勝手に読む古事記・16
大日本帝国憲法第1条「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。「古事記」を勝手に読んできたが、色々な意味で人間臭くて、とても神聖にして侵すべからずの感じではない。645年、蘇我氏が滅びた時、推古天皇時に編纂された「天皇記」や「国記」という歴史書が焼かれている。「古事記」が、推古天皇の代で終わっているということは、この時代の歴史編纂の流れが「古事記」の誕生と関連しているのだろう。壬申の乱を勝利した天武・持統期の正史「日本書紀」とは、明らかに状況が違う。「古事記」は、主流からはずれ、片隅に追いやられ、本居宣長によって再発見されるまで、ほとんど顧みられることはなかった。「古事記」には、征服された側へのシンパシーが垣間見える。門付け芸をしながら遍歴した芸能者、言祝ぎ(コトホギ)をなす語り部たち。「稗田阿礼(ヒエダノアレ)」と総称されたそうした人たちが語り継いだ物語。それが「古事記」のルーツだったのかもしれない。敗れ去ったものへの鎮魂の物語「古事記」。出雲・筑紫・日向・越・隼人・蝦夷・・・。「日本」は多様だ。そして、歴史はけっして一つではない。
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