神功皇后とは何者なのか?
勝手に読む古事記・11
景行天皇(12代)の死後、成務天皇(13代)が即位するが男児が生まれず、直系は途絶える。そこでヤマトタケルの子タラシナカツヒコ(仲哀天皇)が皇位を継承する。なぜか下関や福岡にある仮宮で国を治めていた。そこで熊襲を討とうとしている時、皇后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)に神が依り憑いた。「西の方にある、金銀財宝であふれた国を与えよう」という神のお告げを、夫・仲哀は疑い、琴を弾き始めた。これが神の怒りに触れ、琴の音が消えると同時に仲哀はこと切れた。神功は神託に従い胎児を宿したまま軍を率い、新羅を目指した。恐れをなした新羅はもとより百済も帰順したと書かれている。産気づいていた神功は石を腰に巻きつけ出産を遅らせ、筑紫に帰国後、男子を出産。後の応神天皇である。しかし、大和にいる母親の違う兄たちとの世継ぎ争いが待ち受けていた。生まれた御子は亡くなったという噂を流し、喪船に乗せて大和へ向かう。また神功自身も亡くなったので戦いをやめようと嘘をつき、相手が油断した隙に攻め入り、琵琶湖でことごとく斬り殺した。戦前の皇国史観でもてはやされた「神功皇后の三韓征伐」は、不思議な虚飾に満ちている。神功皇后の遠征は、中大兄皇子の時代の百済救援戦争が投影されているのかもしれない。この時、女帝斉明天皇は遠征中に九州で亡くなっている。そして神武東征と同じく、またしても西から東へ攻め込んで政権を奪取している。突如、河内平野に出現する巨大古墳の始まりは応神天皇陵から。馬具・武具の出土。騎馬民族征服説もある。性急に結論を急ぐより、仮説を楽しむほうが面白い。第1代・神武天皇、第10代・崇神天皇、第15代・応神天皇。ハツクニシラス(初めて国を治める)と言われるこの三人のみに、「神」の字がつけられている。女性で「神」の字がつくのは、ただ一人、オキナガタラシヒメ(神功皇后)。いったい何者?
関連記事