暴君その名は『煬帝』

biwap

2025年04月26日 18:28

とりあえずの中国史・その11




 魏晋南北朝という長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが「隋」。
 隋という国はどうやって登場してきたのか。北魏の時代。漢化政策に不満を持った辺境地域の軍人たちが反乱を起こし北魏は東西に分裂。この軍人たちは辺境防衛で苦労をともにし、強い団結力を持っていた。人種的には鮮卑系などの北方民族と、北方民族化した漢族が一体となっていた。


 この軍人たちが北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団になる。彼らは質実剛健な雰囲気を持っていた。一方、東魏、北斉は南朝の貴族文化に影響され軟弱化していく。


 隋の建国者・楊堅(ヨウケン)は、北周の皇帝の外戚。北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てる。もともと彼らは北魏時代の軍人仲間。王朝が隋に代わっても基本的な政策の変更はなく、支配者層の顔ぶれもかわらなかった。その後、楊堅は北斉・陳を滅ぼし、隋は統一を成し遂げる。


 北魏・西魏・北周という流れの中で、いわゆる漢民族と鮮卑族などの北方民族が融合し、そのエネルギーが隋、唐という統一王朝を生み出したともいえる。
 都は大興城(長安南西)。土地制度は北魏より引き続いて均田制を採用。税制は租庸調制。王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れることができた。北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が隋の時代に実が結んだことになる。


 文帝(楊堅)を継いで隋の二代目の皇帝になったのが煬帝(ヨウダイ)。
 煬帝といえば倭国との関係で有名なエピソードがある。607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡った。煬帝に渡した国書の冒頭が「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す」
 これを読んで煬帝は激怒した。なぜ怒ったかというと、中国の皇帝と倭国の王が同格に扱われていたからである。ところが、怒ったはずの煬帝だが、翌年には裴世清(ハイセイセイ)という使者を倭国に派遣して友好関係を続けている。なぜか。ちょうどこの時期、高句麗遠征の準備を進めていたからだ。
 この後、三度にわたる高句麗遠征はことごとく失敗し、民衆の離反、内乱により隋は滅亡していくことになる。


 隋の皇帝はたったの2代しか続かなかった。そのため、建国者で初代皇帝となる楊堅(文帝)がせっかくまとめ上げた国を、2代目の煬帝が暴政によってぶち壊してしまったというイメージが強い。
 煬帝の実際の名前は楊広なのだが、死後「天に逆らい民をしいたぐ」という意味で「煬」の字が当てられた。隋の次の王朝「唐」が「煬帝」をことさら悪辣に描かせている可能性が高いので、そのへんは差し引いて考えた方が良いかもしれない。


 過酷な支配で民衆を虐げたことは事実なのだが、実に歴史的な大事業をやっている。南北を縦断し、華北と江南を連結させる大運河の造設である。准水と黄河を結ぶ通済渠(ツウサイキョウ)と黄河と涿郡を結ぶ永済渠(エイサイキョウ)、さらに揚糊江と余杭を結ぶ江南河(コウナンガ)を造り上げた。大運河は南北中国の経済の大動脈として以後の社会に欠かせないものとなっていった。




 上海の北西約270kmに運河に面した町・揚州がある。この町は遣唐使の到着地でもあり、元の時代にはマルコ=ポーロが訪れるなど、揚州は海のシルクロードの玄関口として要衝の地であった。この地に煬帝の墓がある。
 煬帝の下で重い税負担と徭役に耐えかねた民衆は、史上例を見ない数百の反乱が起こした。この激しい反乱が巻き起こる最中、煬帝は身の安全を図るために揚州に滞在し、政治から目を背け、揚州の宮殿に籠もり酒宴に明け暮れていた。618年3月、最も親しい側近2人に反旗を翻され殺害されたといわれている。しかも、煬帝は観念して毒酒により自害しようとしたが許されず、よりによって「真綿でじわじわと首を絞められる」という悲惨すぎる殺され方で50年の生涯を閉じたといわれる。


 遺体はそのまま放置され、兵乱が去った後に皇后蕭氏は配下の女官たちを指揮して、ベッドの敷板をはがして棺を作り、宮殿に仮埋葬したという。しかしその墓はどこか、わからなくなった。そこで清代になって揚州の北郊にあった古墓を煬帝墓と認定して、観光客を集めてきた。


 ところが、2013年春、揚州市の西郊外で発掘された墳墓から、「隨(隋)故煬帝墓誌」と刻まれた墓誌が発掘され、煬帝と蕭皇后を埋葬した墓であることが確認された。唐に倒された前王朝最後の皇帝である煬帝は、唐の太宗によって、江都の郊外に陵墓を築き正式に埋葬されていた。しかも傍らの墓室には皇后蕭氏も眠っていた。巨大な暴君「煬帝」となった「楊広」さんも、等身大の人間のように思えてくる。


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