日本による植民地支配と、その後の南北分断・対立。その血の滲む様な痛みを少しでも想像したならば、こんなひどい報道はできないはず。「北朝鮮の思惑」なるものを自分勝手な思惑で語る「専門家」と呼ばれる人たちの不思議な言説。平和への歩みを一歩踏み出した、その一歩の重みをなぜ考えようとしないのか。その一歩をなぜ支えていこうと言わないのか。
本屋さんに並ぶヘイト本を見て、本当に情けない気持ちになる。政治的な思想信条の問題ではなく、人間としての品性の問題にすら思える。そんなヘイトまがいの発言をして何も気づかないワイドショー。まるでセクハラに気づかない「おっさん文化」そのままだ。
あまりに情けないので異論を集めてみた。「専門家」「コメンテーター」の皆さんの発言意図が分かるはず。
天木直人、2018年4月28日のブログから
<一夜明けて、私は今朝の各紙の社説を真っ先に読んだ。そして、予想していたとはいえ、悲しくなった。
産経が、「これで前進したと思うのは大間違いだ、圧力を緩めるな」と書き、読売が「非核化の道筋は見えない」と書くのには驚かない。
しかし、リベラル、護憲、安倍批判の朝日、東京、毎日までも、こぞって警戒的だ。
「2007年の前回に出た南北共同宣言から大きな進展はなかった」(朝日)と書き、「北朝鮮は自国だけの非核化を拒否しているとも受け取られる」(東京)と書き、「北朝鮮の非核化に向けた具体的な行動が盛り込まれなかったのは残念だ」(毎日)と書いている。
朝日に至っては「国際制裁を緩めるのは適切ではない」と書き、東京は「核保有国宣言であり、核は放棄しないと受け取る見方もある」とまで書いている。
北朝鮮問題の責任の一端は日本にもあり、そして日本は戦後復興のきっかけとなる朝鮮特需から利益を得て来た国だからだ。朝鮮半島の平和構築に参加して、その感動を共有するだけでなく、作り出す努力をしなければいけないのだ。>
太田昌国、2018年4月28日のコラムから
<南北首脳会談報道に欠けていること
一般的に言って「政治家」への不信が、私の心中深く渦巻いているのは事実だとしても、4月27日の朝鮮半島の南北首脳会談の様子は、中継されている限りは、山積している仕事を放り出してでも見るほかはなかった。ふたりの立ち居振る舞い、交わされている会話、それを現認したかった。歴史的な瞬間に立ち会っているという臨場感があった。金正恩氏と文在寅氏が握手し、南北を隔てる軍事境界線を南へ、そして北へと跨ぐシーンには、思わずこみ上げてくるものがあった。
文在寅氏が去る4月3日「済州島虐殺70年犠牲者追悼式」で行なったスピーチを読んだり、南北首脳会談実現に向けてのこの間の努力を見たりしていれば、この人物が世界的に見て並み居る政治家の中にあって頭一つ以上抜け出た見識を持っていることは明らかだった。
会談の様子や発言の中身を知ると、文氏は予想通り、金氏は意外な一面を見せた。会話の当意即妙なこと、考え抜いた言葉を即興で語っていることに、深い印象を受けた。
日本のテレビ局スタジオに居並ぶニュース・キャスターやコメンテーターの発言には、おしなべて、ふたつの問題があった。
一つ目は、朝鮮半島の分断と対立の状況に対する日本の責任を顧みる発言が、まったく聞かれない点である。不条理な現実が厳として存在してきたのなら、それには歴史的な根拠がある。明治維新以降今日に至る150年の歴史の中で、日本が朝鮮に対して行なってきた数々の「仕打ち」がこの分断に加担してきたことに触れずして、何を言えようかという内省を欠く発言ばかりだ。政府レベルでも民間レベルでも、加害側である日本がその歴史的な責任について謝罪し償うどころか、居直って自国の侵略行為を正当化した挙句、見聞きするに堪えぬ憎悪と排斥の言葉を相手方に浴びせかける光景がこの社会では日常的なものになっているだけに、この振り返りは決定的に重要なのだ。
二つ目は、この期に及んでも「拉致・核・ミサイルの包括的な解決」が重要だとする発言が変わることなく語られることである。甚だしくは、板門店宣言には「日本人拉致問題へ言及はなかった」などと指摘する者がいる。お門違いの要求をするのは、止めたほうがよい。南北融和の方向性に難癖をつけるのは、首相だけに任せておけばよい。メディアに出る人間は、ものを考えて言葉を発する責任を自覚すべきだろう。決まり文句に倚りかからずに。>
広島瀬戸内新聞ニュース(2018年4月28日)
<朝鮮半島が平和になれば日本の米軍基地に朝鮮のミサイルが飛んでくる可能性もなくなる。
日本がミサイルで攻撃される可能性があるとすれば、朝鮮半島で武力衝突があって、朝鮮が米軍をたたくために、日本の米軍基地を攻撃するケースだろう。
だから、朝鮮半島での「65年ぶり終戦」については、少なくとも、全日本国民が素直に歓迎すべきだろう。
もちろん、本社社主個人としては、南北分断の間接的な原因を日本がつくったことは申し訳ないと思っているが、それを抜きにしても、全ての日本人が歓迎すべきだと思う。
「朝鮮の脅威」が消えてしまうことで、「飯の食い上げ」になってしまう人は別にして。
朝鮮半島の平和を願う全てのコリアンの皆様にはお祝い申し上げる。
それとともに、以下の点は指摘したい。
正直、今回の南北首脳会談に至る緊張緩和については、日本(安倍ジャパン)は途中までは邪魔をしただけであるといってもいい。
緊張緩和を最も嫌った国が日本だったと言うことは忘れてはならない。
日本は植民地支配により、間接的に南北分断の原因をつくった。そのことの反省もなく、緊張緩和を嫌っていたのは事実。最後になってあわてて文在寅に安倍晋三が拉致を取り上げてくれるよう頼んだだけである。>
LITERAX(2018年4月27日)
<この歴史的な南北の対話をなんとか潰そうと必死になってきたのが日本政府だ。
そもそも、南北対話の動きは年明けからはじまっていた。今年の元旦には金委員長が平昌五輪に代表団を送る用意があると表明、その後おこなわれた南北閣僚級会談は国際的にも評価され、韓国の外交も奏功し、北朝鮮選手団の参加にくわえ応援団の訪韓実現に至った。
ところが、安倍首相は1月の南北閣僚級会談を尻目に、外遊先で“北朝鮮の脅威”言いふらしてまわった。
2月の五輪開会式に際した日韓首脳会談では、文大統領に「米韓合同軍事演習を予定通り進めることが重要だ」と内政干渉的なことまで言い出して融和ムードへ冷や水を浴びせかけ、五輪開催中の日米電話会談後には「北朝鮮に最大限の圧力をかけつづけていく点で完全に一致した」などと発言。さらに、韓国が南北首脳会談実現に向けて動くと、外務省を通じて韓国に「まだ時期が早い」「思いとどまるべき」と、再三にわたって圧力をかけつづけたのである。
まさに米韓の足を引っ張り、北朝鮮との対話を食い止めようと必死で動き回っていたのだ。
さらに驚いたのは、3月になって韓国大統領府が韓国の文在寅大統領と金正恩委員長の南北首脳会談の合意を発表し、その後の米朝首脳会談や平和的解決への流れが決定的になったあとも、その態度を変えなかったことだ。
たとえば、菅義偉官房長官は、南北首脳会談合意について「対話のための対話であっては意味がない」などと非難に近いコメントを発表し、河野太郎外相も「経済制裁で困っているので、(金委員長は)必死にほほ笑み外交をやっているのだろう」と挑発した。
そして、安倍首相も、3月8日の参院予算委員会で対話路線を完全否定し、「圧力を最大限まで高める」と言い放った。
「対話に応じたからといって、たとえば制裁を緩める対価を与える、対話に対して対価を与えるということがあってはならない」
「核・ミサイル計画を放棄させるため、安保理決議の完全な(制裁)履行など、あらゆる方法で、圧力を最大現まで高めていく考えであります」
はっきり言うが、こんな態度を示したのは、世界中で日本の政府くらいだ。南北首脳会談合意のあと、トランプ大統領はすぐに「世界にとって素晴らしいことだ」と言明し、対話に意欲を示したことを「北朝鮮は真剣だと思う」と評価。そのほかロシアや中国、EUも歓迎姿勢を示した。ところが、日本政府と安倍首相だけは交渉の進展を期待するようなコメントは一言も出さず「対話に対して対価を与えるな」「まだまだ圧力を高めるぞ」と息巻きつづけた。
その上、金委員長と習近平国家主席の電撃的な首脳会談がおこなわれた際には、安倍首相も河野外務相もまったく情報を得ていなかったことが露呈。挙げ句、3月28日の参院予算委員会では、安倍首相は「北朝鮮の側から対話を求めてきた。圧力を最大限まで高めるわが国の方針を、国際社会の方針にするためにリーダーシップを取ってきた結果だ」と宣ったのである。
完全に孤立状態なのに「俺の成果」と言わんばかりに勝ち誇る。まさに「裸の王様」としか言いようがないが、忘れてはいけないのは、安倍首相は北朝鮮問題を「国難」と呼んできたことだ。
しかし、今回の南北首脳会談では、金委員長は弾道ミサイルの発射について「(未明に)もう叩き起こさない。私が確約する」と述べた、というのである。
ご存じの通り、安倍首相は昨年9月、「北朝鮮問題への対応について国民に問いたい」などと言い出し、北朝鮮問題を「国難」と呼んで解散総選挙をおこなったが、その「国難」は足を引っ張りつづけた南北の対話によって突破の道を切り拓かれようとしているのである。悪い冗談のような話だ。>