僕たちのヒーロー

biwap

2016年09月29日 06:36


 力道山をはじめ、自らの出自が明らかになることに怯え苦悩した人たちがいた。朴一『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(講談社)及びLITERAXの記事から要約。


 松田優作。1949年、下関で生まれる。母かね子は、朝鮮半島からやってきた在日コリアン一世。優作は母が36歳の時に不倫した相手との間にできた子。彼の父親は優作が生まれる前に姿を消し、かね子は駄菓子や雑貨を売るよろず屋を営んでいた。それだけで家族を養っていくことは難しく、店の二階を娼婦に貸し出し、上がりの一部を受け取って家計の足しにしていた。
 複雑な生い立ちを抱えていた優作。家が女郎屋で劣悪な生活環境にあったことはインタビューでも隠すことなく語っていたものの、自分が金優作という名をもつ韓国籍の在日コリアンだということはかたくなに隠し通していた。それは、「松田は朝鮮人だから付き合うな」などと言われた学生時代の経験から。貧乏だった過去はファンから受け入れられても、生い立ちに関しては受け入れてもらえないだろうという確信があったからだ。生い立ちを知られたら周囲の人々は自分のもとから去っていってしまう。その強迫観念は優作の心を縛っていく。
 60年代後半、文学座に入団。本格的に演技の勉強を始めたころ、後に最初の妻となる松田美智子と同棲生活を始める。その時、優作から美智子に告げられた衝撃的な一言。「本当のことを知れば、お前は俺から逃げていく。絶対に逃げる」
 優作は美智子に自分が在日コリアンであることを告げていなかった。自分の恋人に生まれを明かすことができない。それほど差別意識の強い時代だったのだ。美智子の親族による身上調査の結果、後に美智子は優作の過去を知ることになる。だからといって優作との関係を終わらせることもなく、同棲生活は続いていった。
 その後、優作はスターへの階段を順調に昇っていく。そんななか、優作は美智子に「どうしても、帰化したい。協力してくれ」と頼み込んできた。それまでも帰化申請を行ったことはあったが、母親が風俗関係の仕事をしていたことなどで受け付けてもらえなかった。美智子の家の養子となる道を選べば日本国籍を取得できるかもしれない、彼はそう考えたのだった。俳優として活動し続けるためには、在日であるというルーツを捨てることがその時代どうしても必要だった。少なくとも、彼はそう考えていた。
 帰化に際しては膨大な資料を用意しなければならない。そのなかで彼が最も力を入れて書いた「帰化動機書」を読めば、その当時の差別意識の強さ、そして、その差別に優作がどれだけ追いつめられていたかがよく分かる。
 「僕は今年の七月から日本テレビの『太陽にほえろ!』という人気番組にレギュラーで出演しています。視聴者は子供から大人までと幅広く、家族で楽しめる番組です。僕を応援してくれる人たちも沢山できました。現在は松田優作という通称名を使っているので、番組の関係者にも知られていませんが、もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう」


 都はるみ。1948年、在日韓国人の父と日本人の母との間に生まれる。1969年11月に発売された『週刊平凡』で母の北村松代が娘の出生についてカミングアウト。「朝鮮人と結婚したため、若いときからひどい差別と蔑視を受けてきた。世間を見返すためにどうしても娘を人気歌手に育てねば」と語った。この記事は思った以上の大きな反響を呼んだ。しかし、このまま発言を続けると歌手としての娘のキャリアが絶たれてしまうと判断した母はそれ以降取材をすべて断った。都はるみ本人も、そのことについて口を開くことはなかった。
 そうしてこの話題はいったん沈静化したものの、当時はまだまだ差別意識の色濃い時代。カミングアウトから7年後の1976年に都はるみが『北の宿から』でレコード大賞を受賞したとき、「都はるみの父は日本人ではない。そんな人が賞を取っていいのか」(『週刊サンケイ』)といったバッシングがメディア上で展開される。都はるみはその歌手人生を通じて差別意識に苦しめられることになる。


 劇作家つかこうへいも差別意識に苦しめられた著名人の一人。韓国出身の父のもとで在日コリアン二世として福岡で生まれ育った。
 「僕は表向き、差別なんてされたことはないよ、と言うことにしているんですが、実際はかなりありました。特に福岡県の場合、あのころは韓国が『李承晩ライン』というのを設定してそれを越えた日本の漁船をどんどん拿捕していたころですし、筑波炭坑の坑夫たちは気も荒かったですから、かなり激しい差別がありました。拿捕のニュースが新聞に出た日などは、学校に行きたくないと思った程です」
 そんな少年期の思いが、『蒲田行進曲』のヤスなど、後のつかこうへい作品に社会的弱者のキャラクターが多く登場することにつながっていく。「常に社会の底辺のところで頑張って生きている人に生きがいをもってもらいたい、光を当てて励ましたい」
 こうした著名人たちの体験は、当時の在日コリアンがいかに苛烈な差別にさらされ、そのことに苦悩してきたかを示している。こうした空気は1990年代後半に入ると、少し薄らいでいく。自分の生まれに関して負い目や苦しさを感じることはなく、むしろ、そのことに誇りをもつ世代が登場してきた。


 俳優の伊原剛志。2001年に『徹子の部屋』に出演した際、自分は在日韓国人三世として生まれたことを明かした。さらに、翌年には『日韓友好スペシャル 日本と韓国・愛と哀しみの衝撃実話』という番組に出演。青年時代を過ごした大阪市生野区の在日コリアン居住区を旅し、番組のなかで自分の家族やルーツについて振り返った。松田優作らが差別に苦しんだ時代では考えられなかった仕事だが、この番組に出演した後、伊原はこう語る。
 「私にとって、自分が何人ということよりも、役者だということのほうが大事なんです。役者は、自分がどういう存在かを知っていないと成り立たないと思う。だから日本人も韓国人も客観的に見れる自分の立場というのは、役者をやるのにかえっていいことだと思っていますよ」


 俳優の玉山鉄二も同じく自らの出自にプライドをもっている芸能人だ。2006年にソウルで開催されたメガボックス日本映画祭に出席し、父親が韓国人であることを明かした。彼は「機会があれば韓国で活動したい」と話すなど、日本と韓国の映画界の橋渡しの役割を担っていく意向も語っている。
 こうした在日の著名人たちの勇気あるカミングアウトもあって、一時はそのまま差別はなくなっていくように見えた。しかしその後、時代を逆行するように差別意識は急激な高まりを見せる。もしもいま、伊原や玉山のようなカミングアウトを行えば、その時点でネトウヨによる罵詈雑言の餌食となり、芸能人としての人気も危ういものとなるだろう。





 嫌韓ブーム、在特会やネット右翼によるヘイトスピーチ、安倍政権発足後の日本全体を覆う排外主義的空気。いまや、力道山や松田優作が自分の出自が明かされることに恐怖し、苦しんだ時代にまで戻ってしまっている。
 差別がいかに残酷で人を追いつめるか。その凍りつくような空気の中に生きることは、差別する人もされる人も、いやそこに住むすべての人々の心すら深く傷つけていくのだ。


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