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2014年11月06日

まさか光源氏だったとは

道草百人一首・その33  
「陸奥(ミチノク)の しのぶもぢずり 誰(タレ)ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」(河原左大臣)【14番】

まさか光源氏だったとは

 大津市伊香立にある融(トオル)神社。何も知らずに通り過ぎていた。「融」とは、河原左大臣(カワラノサダイジン)こと源融のこと。
 陸奥で織られる「しのぶもぢずり」の模様のように、乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。「もぢずり」とは、現在の福島県信夫地方で作られていた、乱れ模様の摺り衣(スリゴロモ)のこと。摺り衣は忍草(シノブグサ)の汁を、模様のある石の上で布に擦りつけて染める方法。
 嵯峨天皇の皇子・源融。臣籍に下り源氏の姓を受ける。河原左大臣とは、賀茂川・六条河原に建てた大邸宅「河原院」の名に因(チナ)む。百人一首では、河原左大臣は陽成院と光孝天皇という二人の天皇に挟まれている。陽成天皇の退位。源融は、次の天皇になろうとするが、摂政・藤原基経に一蹴される。基経が擁立したのが光孝天皇。融の恨みのエネルギーは、けたはずれの「風流」へ向かう。賀茂川のほとり東六条に「河原院」を建立。陸奥国塩釜の景色を模した広大な庭園。そこに大きな池を掘り、海水を毎日大量に運び入れては塩焼をした。在原業平を始め多くの歌人・文人たちのサロンとなっていく。この河原院は光源氏が造った「六条院」のモデルとされている。源融自身が光源氏のモデルといわれる所以となる。
 平安風流貴公子の魁(サキガケ)・源融。今生に恨みを残したか、死後も亡霊として河原院に住み続けたという。大津市伊香立は、源融の荘園のあった場所。融の埋めたという鏡を神璽(シンジ)とし、源融を祭神として祀っている。