› 近江大好きbiwap › 旅行記 › 民俗と文化への興味 › 徐福伝説と熊野

2016年01月27日

徐福伝説と熊野

徐福伝説と熊野

 和歌山県新宮市にある「徐福公園」。中国の史書は徐福についてこう語る。秦の始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と具申。始皇帝の命を受け、3000人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って、東方に船出。かの地で「平原広沢」を得、王となり戻らなかった。東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(エイシュウ)のこと。「蓬莱山」は日本でも広く知られている。

徐福伝説と熊野

 徐福が渡来したという伝説は各地に残っている。江戸時代の儒学者・新井白石は次のように述べている。「熊野付近には秦住という地があり、土地の人は徐福の故地だと伝えている。七、八里の所に徐福の祠がある。古い墓が差を見せて並び、その家臣の墓だと伝えられている。秦姓の諸氏があるが秦人の従来を思えば必然のことである」。「熊野権現縁起書」(1075年)には、「蓬莱島」「徐福廟」の記述が見られる。

徐福伝説と熊野

 太平洋に面する新宮市は、黒潮の流れが当たる温暖な土地。熊野川の河口近くには、美しい半球形をした蓬莱山がある。徐福たちはこの地に上陸し、天台烏薬という木を発見したという。土地の人たちと田畑を開墾し、農業技術・漁法・捕鯨・製紙など多くの技術を伝えたとされる。

徐福伝説と熊野

 公園にある徐福の墓は、江戸時代の元文元年(1736年)に建立されたもの。紀州藩初代藩主・徳川頼宣が儒臣・李梅渓に「秦徐福之墓」の文字を書かせた。

徐福伝説と熊野

 不老不死の薬を求め、渡り来た徐福。同じ渡来伝説は、朝鮮半島や日本列島の各所にも存在する。数多の「徐福」たちが海を渡り、文化を伝えた。海は障壁ではなく通路だともいえる。いやそもそも、国や国境などというfictionに、目を曇らせてはいけないのだ。